怪談百物語 第85話 武蔵が淵



(出典 atnd.org)


 むかしむかし、可児川と言う川の近くで、お酒を作って売っている酒屋がありました。
 この酒屋の『恵土の華』というお酒は、とてもおいしいとの評判で、遠くから買いに来る人も多くいました。
 ある日の事、この酒屋に身なりの立派な若い侍がやってきました。
「ごめん。これに酒をたのむ」
 そう言って侍が差し出した徳利は、侍の身なりと違ってとても安物の徳利でした。
 それから侍は、毎日のようにお酒を買いに来たのですが、その度に違う徳利で、しかもどれも安物だったのです。
 そして今日も侍が徳利を差し出したので、酒屋の主人がふと見ると、その徳利は泥で汚れていたのです。
 そこで主人が、
「あの、この徳利は汚れていますので、ちょっと洗ってきます」
と、裏の井戸で洗おうとしてびっくり。
 なんと徳利の中も、泥で汚れていたのです。
(酒好きの人が、こんな徳利を使うわけがない。・・・こいつは、おかしいぞ)
 そこで主人は、お酒を受け取って帰る侍の後を、店の若い者に追わせることにしたのです。
 やがて侍は森の中に入っていくと、大きな淵の前に立ち、
 ドボーン!
と、淵に飛び込んだのです。
 後をつけていた店の者があわててその淵を覗き込んでみると、タライほどもある大きなスッポンが、口に徳利をくわえて潜っていくところでした。
 店の者が、その事を主人に知らせると、主人は腕組みをして、
「そう言えば、あの淵には水神さまをいると言われている。それに川のそばには小さな祠がまつってある。となると、あの徳利は、日頃、百姓たちがお供えする、お神酒(みき)つぼで、代金は、おさい銭にちがいない」
と、言いました。
 でもそれから、あの侍がお酒を買いに来ることはありませんでした。
 さて、それからしばらくたったある日、こんなうわさが広まりました。
「水神さまの淵を酒を持った人が通ると、淵に引き込まれて二度と出て来られないそうだ」
 さあ、このうわさが広まると人々は怖がって、淵にも川にも近づかなくなりました。
 おかげで酒を買いに来る人も、いなくなってしまいました。
 そんなある日、酒屋へ一人の侍が尋ねて来て言いました。
「これ主人。この先の水神さまの淵に、大きなスッポンが出て悪さをするそうじゃが、それは本当か?」
 この侍は、このあたりを治める殿さまの家来だったです。
「はい、本当でございます。おかげで人が通らなくなりました」
「うむ。この領内がさびれては、殿に申しわけがない。なんとかスッポンを退治せねば」
 そこで次の日、侍は二人の家来を連れて、再び酒屋へやって来ました。
「これからスッポン退治に向かう。これ酒屋、お前も酒を用意して、ついてまいれ」
 こうしてお酒を持って淵に行くと、さっそくお酒のにおいをかぎつけたのか、淵の中からブクブクとあやしい泡が出てきました。
「さあ主人、酒を出してくれ」
 侍は酒屋の主人から徳利を受け取ると、それを淵の泡立つところへ放り投げました。
 すると淵の中から、タライよりも大きなスッポンが姿を現して、酒の入った徳利を口にくわえたのです。
「よし。今だ!」
 侍は淵に飛び込むと、腰に差した小刀でそのスッポンの首を切り落とし、見事スッポンを退治したのでした。
 それからは、この淵のそばをお酒を持って通っても、だれも襲われる事はありませんでした。
 そしてその後、この淵は殿さまの名前をとって、『武蔵が淵』と呼ぶようになり、酒屋の『恵土の華(えどのはな)』も、また売れるようになったのです。
    おしまい